人になりたいロボットと、人になれない人間。 | フラジールに蕩れ。

人になりたいロボットと、人になれない人間。

2017.01.14.Sat.22:58
こんばんは。



地元もついに、雪が降り始める今日。

入り口は工事中で出入りしにくいし、財布もないし、もうワタシ的には最高にオフシーズンなこの頃。



いまは映画視聴のシーズンですわ。見まくるのです。


今日は「A.I.」を見た。たしかに長いけど、ストーリーは最高。
氷河期で眠ってエンドでもよかったけどね。



さて、私はこのテーマについて、少し思うところがあるので記述。


まず、人間の優位性であるかのように語られている「愛」であるが、これはとても機械的なものだと思う。

愛は本能から出づる。
それは生殖のためであったり、子の育成のためであったり、自己犠牲によって自分自身が満たされるためであったりする。

この本能は、DNA・遺伝子によるもの。
つまりは生物として成り立たせるための最低限のプログラムなのだ。


それをまるで人間という種は「愛」という”人間らしい”すばらしい感情がある、などと勘違いしている人が多い。

プログラム言語は違うものの、本能をプログラムしたロボットの愛と人間の愛。本質の何が違うのだろう。

まず、行う行動は同じだ。
植え付けられたプロセスも、同じようなものだ。製造過程でインプットされる。


どうだろう、同じとしか言いようがない。



そもそも愛など、そこまで高尚な感情ではないのだ。

歴史は深く、伝統的で、種の繁栄には欠かせないものであるが、それはそれだけであって、それ以上の意味はない。
果たしてそれが善たるものだろうか。

もちろん善悪の裁量など、結局はなんの公平性も真実性もないが。


しかし、論理的に考えて、初めから与えられて、なんの意思も甲斐もなく持たされたお小遣いが、素晴らしいなどというのはちゃんちゃらおかしい話だ。ひどく未熟な考えだ。



話は戻るが、仮に「愛」と呼ばれるものが素晴らしいとするなら、そのせっかくの愛(本能)を理性知性などで覆しがちな人間のほうがロボットよりも劣っていると言わざるをえない。

この「A.I.」という映画は、私に人間らしさとはなにかということを訴えてくる。



人間らしさとは、

大衆の共通して持っている「愛」というものなのか、
それとも個体の知性がつむぐオンリーワンの「性癖」なのだろうか。



とにかく、すばらしくも悪くもないが、「愛」というものは人を幸せにする。

それが用意された快楽であったとしても、私たちはそれを享受する権利があるのだ。


その実は、人々の思う幻想的でロマンチックなものでないとしても、 ”人間らしく” 生を全うするために欠かせぬものであるのは事実のようだから。

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